ホテル椿山荘東京の歴史History

ホテル椿山荘東京の歴史

古書

江戸時代

ホテル椿山荘東京の周辺(東京都西北部目白台)は、南北朝のころから椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていました。

江戸時代初期には、神田上水の水役として出府した松尾芭蕉が、深川芭蕉庵に移るまでの4年間、ホテル椿山荘東京に隣接する関口竜隠庵(のちに関口芭蕉庵)に住んでいました。安政4年(1857年)の切絵図によると、現在のホテル椿山荘東京の敷地は、上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷であったことがわかります。

山縣有朋写真

明治

軍人・政治家であった山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭園、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名しました。

庭園の全体計画や細部の意匠を指導したのは、山縣自身でしたが、この施工には当時東京を代表する庭師であった岩本勝五郎が起用されました。目白台地の崖線や緩傾斜を利用した芝生園地と流れ、池を特徴とした庭園は、造園当時から生花界の重鎮であった近藤正一など、多くの文化人によって、日本で最も天然趣味に優れた名園と評価されました。

山縣有朋(1838年~1922年)

山縣有朋

山口県、萩出身。
山縣有朋は、伊藤博文と共に明治政府の最高指導者となり、内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任した軍人・政治家です。

山縣は日本軍閥の祖と言われ、また政治家としても手腕を発揮したが、それ以上に極めて文化人でもありました。和歌を嗜み、ことに庭園のことを好んで、作庭については一家言を有していたようです。 今日にも残る山縣の名園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして東京目白にある椿山荘庭園があり、この三園をあわせて山縣三名園とよばれています。山縣は明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を招き、椿山荘で国政を動かす重要な会議を開いていたようです。

後の研究によると、椿山荘をはじめとする山縣の庭園は、出身である萩の地形を再現したもので、ふるさとに思いを馳せたのではないかといわれています。実際に萩の阿武川分流地点には、「萩の風景が山縣の原風景である」と刻まれた石碑があります。阿武川上流から日本海を望む景色に椿山荘庭園から早稲田を望む風景を重ねて見るのも一興ではないでしょうか。

大正13年頃の本邸写真

大正・戦前

大正7年には、当時関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主「藤田平太郎男爵」が、名園をありのまま残したいと言う山縣有朋の意志を受け継ぎました。しかし、昭和20年の空襲で、山縣の記念館や一千坪の大邸宅、樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまいました。

昭和28年本館全館落成

昭和

昭和23年(1948年)、椿山荘は藤田鉱業(旧藤田組)から藤田興業の所有となります。藤田興業の創業者となった小川栄一は「戦後の荒廃した東京に緑のオアシスを」の思 想の下に、一万有余の樹木を移植し、名園椿山荘の復興に着手します。

昭和27年11月11日、ガーデンレストランとして「椿山荘」オープン。ようやく完成した椿山荘で盛大な披露パーティが行われました。以来結婚式場の名門として、また大小宴会や日本を代表するガーデンレストランとしてたくさんのご利用をいただいています。

昭和58年(1983年)椿山荘新館(現プラザ)がオープン。昭和62年(1987年)庭園の中の数寄屋造りの料亭「錦水」が、また翌年には庭園内にあった美術館を改装して「新チャペル(現ヴァンヴェール)」がオープン。常に最新の設備と行き届いた温かいサービスで、椿山荘は着実に歩み続けてきました。

昭和58年完成の新館

平成

平成 4年(1992年)
椿山荘敷地内に、「フォーシーズンズホテル椿山荘 東京」オープン。
平成 10年(1998年)
庭園の中のクリスタルチャペル「ルミエール」オープン。
平成 15年(2003年)
露壇式庭園改装。
平成 22年(2010年)
庭園のシンボル「三重塔」の"平成の大改修"を行う。
平成 25年(2013年)
フォーシーズンズホテルズ&リゾーツ社との提携を終了した「フォーシーズンズホテル椿山荘 東京」は「椿山荘」と統合し、「ホテル椿山荘東京」としてリブランドオープン。

歴史と伝統を守りながら、より洗練された空間とサービスを提供し、「ホテル椿山荘東京」として、これからの歴史を紡いでいきます。

外観