三重塔の移築前のルーツをたどります
室町時代前期
年広島・東広島 篁山竹林寺に
三重塔 建立
建築様式から室町時代末期の建立とされていたが、
調査により、室町時代前期の部材が使われていることが判明。
一辺約3m弱、総高5丈5尺(16.65m)の小型塔である。
室町時代に記したといわれる竹林寺縁起絵巻には、山頂付近に三重塔が描かれている。
藤田富子が記した『椿山荘記』には三重塔に関する記載があり「此の塔は遠く弘仁時代、小野篁の建立になり、平清盛が第一回の修理をなしたものといひ傅へてをる。」とか。
「紙本著色竹林寺縁起絵巻」(広島県重要文化財)
大正時代中期
台風により二 、三層目が大破
広島県篁山竹林寺の山頂(標高535m)にあった三重塔。
大正時代の台風で二層・三層が大破。朽ち果てて大部分がこわれたと伝えられている。
塔が壊れ寺は修理に困っていた。これに藤田平太郎男爵から依頼を受けて全国を探し回っていた骨董商・大隅安三郎が目を付けたと考えられる。
当時、代わりに新塔を建立して、この古塔を椿山荘庭園に移築したと前述の「椿山荘記」に記載があるが、
住職も代わり、記録もなかったのか、6年間塔の行方がわからず、“まぼろしの塔”と呼ばれていた。
中国新聞社 昭和36年11月12日朝刊
三重塔の跡地の現在
(前述の新塔のゆくえは現住職もわからないと言う)
大正10年
年頃奈良へ
三重塔を解体・修理・組立したのは骨董商 大隅安三郎を通じて、宮大工・山賀熊吉が奈良の自宅裏で修復を行ったとされている。
(公益社団法人・奈良まちづくりセンターの調査研究より)
山賀熊吉(写真中央)
大正10年頃、山賀家の裏手に三重塔が立っていたという証拠が残っている。
藤田平太郎男爵が「三重塔を全国に手配し探し求めた」(藤田富子『椿山荘記』1952年)とあり、「奈良の骨董商を通じて購入」とする文献(中西亨『日本の塔総観』1967年)もあることから、骨董商の大隈安三郎を通じて、自宅を建てた山賀熊吉棟梁に移築・修復を依頼した可能性が高いとか。
藤田富子『椿山荘記』1952 より
後に、亡夫江雪(※藤田平太郎男爵の雅号)が此の丘の樹林を背景に三重の塔を配置したいとの希望で、全国に手配探し求めたが、五重ならばそこここ見当たりもするが、三重は数少なく、やうやく安藝國入間郡の篁山竹林寺にあったのを懇望し、代りとして新塔を建立、椿山荘へ移築したのが今此の丘の一隅、緑葉の中から九輪を擢んで青銅のそり屋根を重ね、この苑の白眉として月に雪に四季を通して、見る人の心を楽しませている現在の塔である。
藤田富子
大正14年
年椿山荘庭園内へ移築
山縣有朋公爵より庭園を譲りうけた、藤田組二代目当主・藤田平太郎男爵が、現在のホテル椿山荘東京の庭園に移築。
男爵 藤田平太郎(写真左)
運命
昭和20年
年東京大空襲に襲われる
5月25日、東京大空襲で発生した早稲田の町の火災が、折りからの強風で椿山荘に飛火し、山縣有朋公爵の記念館とおよそ一千坪の大邸宅、樹木の大半は、倉一棟を残して灰塵に帰してしまう。
しかし不幸中の幸い、三重塔は独立する丘と木立に囲まれていたため焼失を免れるという、数奇なる運命を辿った。
多くの人々の想いを乗せて、
悠然と私たちを見守り続けている
昭和27年
年椿山荘開業
藤田興業の創業者となった小川栄一は「戦後の荒廃した東京に緑のオアシスを」の思想の下に、一万有余の樹木を移植し、名園椿山荘の復興に着手する。
昭和27年(1952年)11月11日、ガーデンレストランとして「椿山荘」オープン。盛大な披露パーティが行われた。以来結婚式場の名門として、また大小宴会や日本を代表するガーデンレストランとしてたくさんのご利用をいただいている。
構造の美しさを求めて
平成22年
年
平成の大改修
移築後初の「平成の大改修」を実施
2010年9月17日起工式~2011年10月31日落慶法要
傷みが激しかった部材の取替えや耐震補強、屋根の銅板瓦の葺き替え、天井絵の復元と彩色を行った。
初重の格子天井絵36枚は、「唐花(からはな)」と呼ばれる文様を、東京藝術大学の教授の監修のもと、天然群青、朱、弁柄で彩色し、一枚一枚手書きで復元された。
初重には、京都の仏師宇野孝光氏による「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」を奉安し、三重塔は新たに「圓通閣(えんつうかく)」と名を授かった。
次の100年の新たな出会いを求めて
令和7年
年三重塔移築100周年
東京都内に現存する古塔は上野動物園の旧寛永寺五重塔と池上の本門寺五重塔、そしてこの椿山荘三重塔だけで、貴重な文化財である。
三重塔あれこれ
◆創造年代が判明?
平成の大改修では、さまざまな発見がありました。とりわけ大きな収穫は創造年代についてです。三重塔は、竹林寺に残る絵巻物によると第一回目の改修は平清盛が行ったとされており、約600年は経過しているといわれておりましたが、今回の建築部材を年輪や放射線から調査したところ、1420年ごろ(室町時代前期)ということがわかりました。
◆もともとは赤い塔だった?
意外な事実がもうひとつ。屋根裏にあった斗などの部材に朱塗りの痕跡が見つかりました。すなわち京都清水寺の三重塔や広島宮島の五重塔などと同様、椿山荘の三重塔も赤い塔であった可能性がでてきました。初重と二重の間にはブラシで朱塗りを落としている箇所も見つかりました。
◆新しい命が吹き込まれた36枚の天井絵
初重の格子天井に描かれていた36枚の天井絵も復元、彩色が施されました。「宝想華(ほうそうげ)」と呼ばれる唐草模様の一種が描かれていました。今回は、天然緑青、朱、弁柄で彩色を施し、1枚1枚手描きで仕上げられました。
初重の格子天井に描かれていた36枚の天井絵も復元、彩色が施されました。「宝想華(ほうそうげ)」と呼ばれる唐草模様の一種が描かれていました。今回は、天然緑青、朱、弁柄で彩色を施し、1枚1枚手描きで仕上げられました。
◆残された墨書の謎
三重目の軒天井より、消えかかった墨書が見つかりました。その内容は「1855年、広島の稲木村の大工」という墨書で、ペリーが来たころのものでした。遠く広島から来た証拠です。なぜここに残されていたかは謎です。
年へ
次の100年に向けて
ホテル椿山荘東京は次の100年も先人たちが残してくれた美術品や史跡を身近に感じていただける美しい庭園を守り続けていきたいと思います。